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テレまめ

おとなの駄菓子はほろ苦い【おかしの家】

「じわる」という現代語がありますよね。「じわじわと心に沁みわたってくる」の略と言えばいいのでしょうか。普段はネットスラングなんか否定するスタンスを取りつつも、気がつくと「じわる」とか「ディスる」を使ってしまうのは、いくら年齢を重ねようとも隠しきれない私の若々しさが為せる業なのでしょうかワラ(←こらっ!)

と、申しますのもね。このドラマ豊作の中にあって、超大作とか、話題作とか、びっくりマークが幾つもつくような宣伝文句もない深夜ドラマ「おかしの家」が、地味な存在ではありますが、なんだかとっても「じわる」んです。

東京の下町にひっそりと佇む駄菓子屋「さくらや」に、33歳の太郎(オダギリジョー)は祖母・明子(八千草薫)と二人で暮らしている。

古い駄菓子屋は売り上げも僅かで、経費を差し引けば純利益などほとんどない。しかし太郎は、祖母が生きているうちは、祖父が始めたこの店を続けようと思い、生活費は夜間のバイトで稼いでいる。

日中のさくらやの裏庭では、太郎や幼なじみの三枝(勝地涼)たちが駄菓子を食んでは駄弁るという、穏やかな時間を過ごしていた。ある日、太郎たちの同級生で、昔はさくらやにもよく来ていた礼子(尾野真千子)が、シングルマザーとしてこの町に戻ってくる。

舞台になるのは、ヒマな駄菓子屋とヒマな風呂屋とのんびりした下町。幼なじみたちが「あんなことあったよなぁ」「あいつ今どうしてるんだろ?」みたいな他愛のない会話を交わす、小春日和の日だまりの様なゆるい空間が、ちんまりとそこにあります。

「その時こんな事が起こった!」「奇遇にもこんな展開が!」なんて拡がりはなく、せいぜい、脚本家志望の三枝や下町の中だけで生きている太郎たちが予想したりする、浅―い想像の世界があるくらい。でもそこには、大人の苦みのような切ない現実が、寄り添うように存在しているのです。

いつまでも無邪気な子供ではいられない、駄菓子屋もいつかはなくなる、でもそこで過ごした意味のない無駄にも思えるな時間は、決して意味なく無駄なものではないと感じさせてくれる。ささやかな人生が愛おしく感じる、小春日和の日だまりの様なじわる30分間なのです。

※元記事:コラム「さっちゃんはね、テレビが大好きホントだよ♪」(テレビる毎日公式メルマガ[週刊・テレビる毎日]第766号)

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